米泉寺

ブログ『住職の一言』から

曹洞宗田島山「米泉寺」の田村松英ご住職が綴っておられるblog(ブログ)から、心にしみるお言葉を拾ってみました。

曹洞宗田島山 米泉寺
住職 田村松英

まことに一事を

 道元禅師も正法眼蔵の中で「まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし」と述べられている。
 日常生活の中で一つのことに携わったら、それが終わらないうちに他事い移ることの弊害を戒めることばにもなっている。

blog「米泉寺住職の一言」2017.10.09より

平均寿命

 人間の平均寿命は、女87歳、男81歳ということであるがカルフォルニア大学のヘイフリック教授は、その限界説によって、人間のヒト細胞の分裂・再生回数は、約五十回までが可能であり、それを過ぎると、分裂を止めてしまうことが認識されているという。
 ヒト細胞の分裂・再生は二年半から三年毎に行われていることから仮に二年半毎に一回の分裂・再生が行われれば二・五年×五十回=百二十五歳まで生きられることとなる。まだまだ元気で世の中のため尽くせると気合を入れている。

blog「米泉寺住職の一言」2017.08.22より

能施(のうせ)

 施しをする者と(能施のうせ)、それを受ける者(所施)というそうであるが共に喜べてはじめて施しの意義が成り立つ、その善行に感謝したい。

blog「米泉寺住職の一言」2017.06.01より

報恩感謝の気持ち

 道元禅師は、随聞記のなかで「ただすべからく万事を放出して一向に学道をすべし。後事を存することなかれ」と申されている。
 くだらないことにうつつを抜かさず、本当にやるべきことに専念して、決して後悔しないように、というのである。
 他の寺院墓地を見ると彼岸のお花がまだあったり、雑草が生い茂っているところが多々見られる。  墓地を清浄にすること、それがご先祖に対する報恩感謝の気持ちとなる。

blog「米泉寺住職の一言」2017.04.30より

この一日の身命は

 修証義の一節に「この一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり此の行持あらん。身心自らも愛すべし自らも敬うべし」とある。お互いを大切ににして、無事に頑張りましょう。
 皆様のご多幸をお祈り申し上げます。

blog「米泉寺住職の一言」2016.12.31より

今生きている

 人生で確実なのは「今生きている」「死ぬこと」です。死が確実に近づいているからこそ、人生を楽しまなければなりません。

blog「米泉寺住職の一言」2016.11.14より

一道万芸に通ず

 剣聖といわれた宮本武蔵は「五輪書」のなかで「一道万芸に通ず」とのべ、それぞれが自分の好きな一道を極めたときに、それは他の一切の芸に通じるのだという。
 一つのことに熱中し、没頭し、その極意をつかめば、それが何であろうと自分を生かし、世間にも役に立つことになる。
 ただ、「極意」を極めるというのが極めて難しい。西野先生も「気の奥儀」のなかでこんなことを述べられている。
 合気道の稽古とは別に、自分で試行錯誤しながら捉えていった自分流の稽古をしていたが「気」のパワーを体験したときから、「足の裏から息を吸うことが真髄だ」と感じ、さらに研究を進めた結果、現在の足芯呼吸が生まれた。
 この呼吸法の眼目の一つは「身体の中心」を捉えることにある。そのためには、呼吸法のときも、「対気」のときも、左右の中心である正中線、上下の中心であるヘソ、そして人間の厚みの中心を捉えることが重要と説かれている。身体の中心とは、ヘソと背骨の中間にある。自分の真ん中から相手の真ん中に向けてエネルギーを出す。そしてお互いに交流させる。それが対気です。
 真ん中を捉えることができたときには、すべてを捉えることができる。これがなかなか難しい。
 しかしいつも笑えて楽しく、健康を維持するには一番いい方法かと考えている。あれもかも欲張っていてもしようがない。
 早く真ん中を捉えきれる身体になりたいものだ。

blog「米泉寺住職の一言」2016.10.07より

開山忌

 8月27日、28日の両日にわたり自坊において開山忌が執り行われた。
 私ども曹洞宗においては一仏両祖の定めがあり、一仏とはお釈迦さま、両祖とは永平寺をお開きになった道元禅師様、総持寺をお開きになった螢山禅師様のことをさしている。
 曹洞宗はこのお二人のお力により、その基礎が築かれ、発展してきたといえる。
 このお二人が年こそ違い、同じ月の同じ日、9月29日に亡くなられた。曹洞宗では、このご命日を開山忌(両祖忌)とし。丁重な報恩の法要を行うこととなっている。三条組寺では、持ち回りで一か月早めた8月に法要が行われる。

blog「米泉寺住職の一言」2016.09.01より

生かされている

 今年は、いろいろなことが重なったが天命のようなもので幸いにも今この瞬間「生かされている」有り難いことである。
 この天命のようなものをさらに強め、新しい仕事にも挑戦していきたい。

blog「米泉寺住職の一言」2016.08.11より

巣立ち

 先般ブログで報告したツバメのヒナが四羽無事に巣立ちをした。ヒナは当初五羽だったが、巣が狭いせいか残念ながら一羽は脱落した。生存することがいかに大変かを示している。人間も同じように一生何事もなく無事過ごせるという保証はない。
 一休禅師は八十六歳で遷化されるとき「成るようになる。心配するな」という言葉を残された。そこには、いくら頑張っても運命には逆らえないという意味もあるのだろう。しかし人間は壁にぶつかって、そこを突破し、切り開くことこそが必要なのだ。
 まずは動いてみよう。

blog「米泉寺住職の一言」2016.07.04より

地獄の地蔵

 困難にあっているときに思いがけないことで助けられると「地獄で仏」という。地獄で仏に会ったような有難さというのでしょうか。
 経典では私たちの住む世界を地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏(ぶつ)の十界に分けている。
 そしてそれぞれの世界はそこに住むにふさわしい者が住んでいるというのです。ということになれば仏様は仏界に住んでおられるわけで、他の九界にはいらっしゃらないこととなる。そして地獄界と仏界では、天と地の差がありますことから、深海魚と高山に住む雷鳥と出会うより、会う確率は低くなります。
 それでは、下のほうにいる我々は救ってもらえないのかということになるかといえば仏の慈悲は深いので、様々なお姿に変えられて外界の者を引き上げてくださいます。しかしながらいかに仏様といえども人間界までで、地獄まで降りていくことは無理であります。
 お地蔵さまだけが、地獄まで降りていくことができるんだそうです。しかし、長くはいられません。地獄の住人からすればこの「地獄の地蔵」にめぐり合うことが助けてもらえる唯一のチャンスでありますからまさに地獄で仏の本番とということになります。

blog「米泉寺住職の一言」2016.04.06より

趙州喫茶去

 中国唐の時代に趙州(しょうしゅう)という禅僧がおられました。この方はだれが訪ねと来られても「お茶を一服いかがですか」と言われるのです。あるとき、事務長さんが「見も知らずの人に用件も聞かぬうちにお茶を薦めることもないでしょう」これを聞いた和尚はいきなり大声で彼を呼んだのです。「和尚さん何か御用ですか」「まあまあ、お茶でも召し上がれ」話はこれだけですが、趙州喫茶去という有名な公案(修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題)となっています。
鶴見総持寺のご開山であられる螢山(けいさん)禅師は「茶(さ)に逢うては茶を喫し、飯(はん)に逢うては飯を喫す」と言われております。日常茶飯事の中にこそ仏道があるということでしょうか。
 貧富貴賤の客を選ばず、無心に施す心を養いたいものです。

blog「米泉寺住職の一言」2016.01.04より

月影の至らぬ

 法然上人は「月影の至らぬ里はなけれども、眺むる人の心にぞすむ」との詩をのこされた。いついかなる時、どんな困難や障害にぶつかるかも知れない。しかしながら、たとえ目の前が真っ黒になったとしても、それは煩悩という雲にさえぎられているからであって、雲の上にはいつも月の光が煌々と輝いている。朝の来ない夜はありません。希望をもって生きましょう。

blog「米泉寺住職の一言」2015.12.19より

生命エネルギー

 西野流呼吸法実践して「骨粗しょう症が完治」[再生しないはずの両膝の軟骨が元通りに」「心臓冠動脈が完治」など身体の様々な不調や病気が消失してしまった事例が数多く報告されている。
 具合の悪い人にこの呼吸法を勧めてもあたかも新興宗教の勧誘を行っているがごとくに受け止められるのは残念なことである。
 病気が治るということは、唯の通過点に過ぎなく、生命エネルギーが湧き出てくると「何かをするから楽しい」のでなく「何をしても楽しい」こんな心身の状況が現れてくるのです。

blog「米泉寺住職の一言」2015.11.15より

月とウサギ

当寺のお檀家である,Iさんは、貧しく、苦しい時代に母親が「こね鉢」でお団子をつくり、飢えを癒してくれたことを感謝し報恩の気持ちをもって、そのこね鉢に「金のウサギ」彫ってほしいと地元の彫刻家「半藤政衛氏」に依頼、それを寺に寄付された。
 月とウサギにはこんな話が残っている。昔ウサギと狐と猿が暮らしていた。ある日三匹は疲れ切った老人に出会う。老人は何か食べ物を恵んでくれないかという。三匹は老人のために食べ物を集めに出かけた。猿は木に登り果物を狐はお墓に行って供え物を持ってきて老人に与えたがウサギは何も持ってくることができなかった。するとウサギは「私には食べ物を差し上げることができませんでしたのでどうぞ私の身を食べていただきたい」と言って火の中に飛び込み、自分の身を老人に捧げたということであります。
実はその老人「帝釈天(仏教の守護神)」という神様で三匹の行いを試そうと老人になったもので、帝釈天はそんなウサギを憐み月の中に蘇らせたというお話があります。
 仏道修行でも「恩を知ること」を大切にしています。
 恩を知るは大悲(だいひ)の本(もと)なり 善業を開くの初門’はじめ)なり 人に愛敬(あいけい)せられて 名誉(ほまれ)遠く聞(きこ)え死して天に生ずることを得て終に仏道を成(じょう)ぜん。
 大悲というのは大きな慈悲心、つまり仏様のことです。仏r様になるにはまず恩を知らなければならない。善業を開くの初門というのは「悟りの道への扉を開く」ということです。・そして恩を知る人は、人に好かれる、評判も良くなる、死ねば店に生まれて仏となる。私もかくありたいものです。

blog「米泉寺住職の一言」2015.10.04より

三拝九拝

 「三拝九拝」とは「何度も頭を下げて拝むこと。また、そのようにして頼むこと」「三拝九拝してやっと承知してもらった」など頼むことの意味に使われているようです。
 三拝とは三回拝むこと、九拝とは三拝を三度つまり九回拝むことです。禅宗のお坊さんは常に三拝九拝をもって仏様に挨拶し、感謝の誠を捧げています。もちろん仏様だけでなく、私たちを取り巻くすべてのものに感謝をするのです。
 拝むからこれをしてくれというものでなく、常に感謝を忘れず、心よりお拝することにより、物事がうまく回ることに繋がるのです。

blog「米泉寺住職の一言」2015.07.17より

「戒」を授ける

授戒とはお釈迦様が人々が平和に人生を送るための道しるべとなる「戒」を授ける儀式であります。
 この戒には、三帰戒(さんきかい)三聚淨戒(さんじゅじょうかい)と十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)があります。
 三帰戒とは①南無帰依仏(ほとけにきえする)②南無帰依法(仏の教えにきえする)③南無帰依僧(僧に帰依する)
 三聚淨戒とは①すべて悪いことはしない②善いことはどんな小さいことでも実行する③すべては自分のためにではなく、世の中のため、人のためになるように心から尽くすことであります。十重禁戒とは①殺生しない②盗みをしない③淫らなことはしない④嘘は言わない⑤酒におぼれない⑥他人の過ちを言わない⑦自ら自慢したり、他人をけなさない⑧与えることを惜しまない⑨腹を立てない⑩仏法僧の三宝をそしらない以上、三帰戒、三聚淨戒、十重禁戒、合わせて十六戒は、お釈迦様をはじめ、もろもろの仏様、祖師様が護持して今日に至ったものでり、この戒を受ければこの身このままが仏であり、仏の子(みこ)となると言われております。
 葬儀では、法の伝承を明らかにした血脈(けちみゃく)を授け、お亡くなりになった方に引導を渡して、仏様の子として仏の世界に導くくこととなります。

blog「米泉寺住職の一言」2015.06.07より

無常たのみ難し

 「修証義」というお経の中にこんな一節があります。
 「無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非ず、命は光陰に移されて暫くもとどめ難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするするに蹤跡(しょうせき)なし、つらつら観ずる所に往時の再び逢うべからざる多し、無常たちまちに到るときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕妻子珍宝たすくる無し、唯一人黄泉に趣くのみなり、己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり」 河の水のごとく、時は刻々に流れてやまず、まことに頼りないものであります。私どもの身命は、自分の自由になるものではなく、いつの間にやら年を取り、若さが失われ、かっての紅顔の美青年の面影はいったいどこにあるのか、跡形さえも残っていない。心静かに考えてみると、過ぎ去った時は二度と還らず、無常の風の前には、いかなる権力をもってしても、親子兄弟や友人などの親しい人情をもってしても、または妻子の限りない愛情や金銀財宝の力をもってしても、何らの助けにならず、唯一人あの世へ旅立つほかないのであって、自分に随ってくるものはただ一つそれは生きている間につくった自分の善悪の行いだけだ。
 生きている間には、何かと後悔することもありますが、それを上回る善行を行えれば良しとしなければなりません。

blog「米泉寺住職の一言」2015.05.02より

降伏一切大魔最勝成就

 当寺では、恒例のお勤めが行われます。31日から2日まで皆様の家内安全、火盗消除、福寿長久、諸縁吉祥を祈念し「大般若理趣分」を転読します。大般若経六百巻中第五百七十八番を大般若理趣分を読むもので約一時間の読経となります。その中で「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と大声でとなえ、祈祷します。
 降伏は、相手に白旗を上げるマイナスの意味で使われておりますが、経典中では悪魔をやっつけるというプラスの意味で使われています。悪魔は降伏されて悪心を無くし、改心して仏の守り神となります。
 悪いものを善に変え、善はますます善いようにして日々を送ることが大切となっています。私自身も反省することが多々あります。今年は、それを脳に刻み日々送りたいと思っています。

blog「米泉寺住職の一言」2015.01.01より

米泉寺

  • 曹洞宗田島山米泉寺

    〒955-0044
    新潟県三条市田島2丁目15番2

    TEL/FAX 0256-32-5568

    米泉寺公式サイト
    http://www.niigata-honmono.jp/beisenji/